ワーサムと増田本について

経緯

ツイッター田中秀臣さんの意見に返信をつけたところ
http://togetter.com/li/8636
はてな匿名ダイアリーに、それを批判する内容が載りました。
http://anond.hatelabo.jp/20100314225437
経済学者の稲葉振一郎さん id:shinichiroinabaが、

shinichiroinaba 大体あってる、が匿名は印象悪いよね。ということで肯定的に紹介しときます。 2010/03/16

と、はてブコメントで書かれています。
匿名の記事の場合、書いてる人に意見が届くかどうか微妙なので(既に読んでないかもしれない)、どうしようかと考えていたのですが、稲葉さんもご覧ということで、こちらの立場の説明をば。

コミックコードは誰が作った?

以下、引用部は、上記はてな匿名ダイアリーの記事より。

しかし実証性無視のアメコミおたくたちは、ワーサムと国家が悪いと自分たちをイノセントなものとして描く。

「アメコミおたく」の一人として言いますが、私は、ワーサムと国家が一方的な加害者で、出版社が一方的な被害者である、と、思ったことはありません。


コミックコードの中には「タイトルにhorrorやterror、crimeとつけてはいけない」という条文があります。
これは、当時、隆盛を極めていたECコミックスの看板が「Crime Suspense Stories」「The Vault of Horror」といったタイトルであったことと対応していまして、コミックコードはライバル潰しの内ゲバ、あるいは、そこまでいかないでも、一部を明確に生け贄に差し出す意図が読めるわけです。
このような事情があるので、出版社もお互いへの、読者への加害者の部分もある、と、私は理解しています。


まとめをご覧いただければわかると思いますが、上記については最初から書いています。
私が引っかかったのは「しかしこのワ―サム問題も、日本の自称マニアたちにはまったく受け入れられてないw いまだに実証以前で思いこんでるだけw」という田中氏の発言です。
匿名氏も勘違いしておられるようですが、出版社が一方的な被害者であるとは思っていませんし、そうでないと書いているつもりです。
それがまず第一点。

ワーサムの主張を歪めて反論をしたアメコミ業界のディビッド・フィンらの画策。
そしてその歪めた反論に合わせる形で自分たちの都合がいいようにアメコミ業界がコミックスコードを導入し、ワーサムに責任を押し付けた。

出版社がイノセントでないのは当然として、この事実認識は、無理があります。


まず、ワーサム他が、出版社に圧力をかけました。
そうした社会的圧力に対応する形で業界はコミックコードを導入ました。
業界はワーサムの言うことを100%受け入れたわけではありません(100%受け入れたくないから自主規制するわけですね)。


その結果、ワーサムからすればコミックコードは「業界が自分たちの都合がいいようにでっちあげたコード」となり、そんなものについては責任を負いかねる、となるでしょう。
一方業界からすれば、「ワーサムが圧力をかけてきたせいで自主規制したんだ」とワーサムの責任を求めようとする。
普通に考えて、これは、どちらの言い分にも、それなりに根拠があるでしょう。


業界の行動に行きすぎはあったかもしれません。またコミックコードが自主規制である以上、先にも書いたようにコミックコードの結果については業界自体も責任や反省すべき点はあるでしょう。
けれどその一方で、ワーサムおよびコミック規制派に、コミックコードの責任がない、というのはさすがに無理があります。

自主規制と法的規制について

さて上記のワーサムの話に、田中秀臣氏は以下のような補足をしています。

非実在青少年問題で、なぜ田中はワ―サム問題を持ち出してきたか、どうも理解されたないのでひとことでいうと、「民間」の自主規制御が国や地方自治体の規制よりも必ず望ましいという命題はないということ(反対も同じ)。ワ―サム問題というかコミックコード問題はそのひとつの例証。
hidetomitanaka
2010-03-15 20:17:02
だから報道などで都が規制すると「民間」の自主規制を損ねるという反対意見があるが、それはよくよく中味をみないと反対意見を一方的にこの点で正当性があるとは僕には思えない。まあ、あんまりいうと法案賛成派に勘違いするアホもでてくるからw、ここでオルソンの意見も参照にしたいがやめとく
hidetomitanaka
2010-03-15 20:20:01
数日前ここでこの問題やったときの数名からの感情的な反応に正直げんなりしているから。たぶんまだこの問題をそこそこ客観的に議論する土壌のないまま、双方がイデオロギーと既得権と政治運動で激突していると思う。

さて、民間の自主規制が、国の自治体の規制に比べて常に優れているわけではない、というのは、大変に同意するものです。
「感情的な反応」というのは私の場合、「しかしこのワ―サム問題も、日本の自称マニアたちにはまったく受け入れられてないw いまだに実証以前で思いこんでるだけw」と言った部分へのものです。
反発が起きたのは事実の指摘ではなくて、田中氏の決めつけに対するものではないかと思います。

増田本について

かつての田中さんとの議論についても、匿名ダイアリー氏がまとめています。

松山「アメコミは善役と悪役が固定してるストーリーなんて嘘だ!ウルヴァリンは元々『超人ハルク』の悪役だった!」


田中氏ら「ウルヴァリンは『超人ハルク』じゃなくて『X-MEN』で正義の味方になったんだよね?別の漫画でキャラが再利用されてもそれはストーリーの中で善悪が固定されてるってことにはかわないよね?何かひとつの漫画の中で善悪が入れ替わった例ってあるの?」

まずは古くて重要なキャラクターとして、「Vision」をあげておきます。
悪のロボット・ウルトロンに作られたアンドロイド・ヴィジョンは、ヒーローチーム、アベンジャーズの敵として作られ、送り込まれました。
だが、アベンジャーズとの説得によって改心し、その一員となり、その後、敵に操られたりとか、人類の平和のために、全てのコンピュータを支配しようとしたりといった話もあります。


次にハル・ジョーダンです。
ハル・ジョーダンは、グリーンランタンシリーズにおいて、長きに渡って主役を務めたキャラです。
宇宙警察組織グリーン・ランタンの地球代表として選ばれたジョーダンは、後にグリーンランタン組織の腐敗に絶望し、グリーンランタン組織の力を奪って破壊し、全ての歴史を書き替えようとします。
それを巡って、文字通り、宇宙を巻き込んだ戦いが勃発します。


こうした話は、メジャーなイベントとしては、ほぼ毎年恒例、小さいタイトルの中の小さいイベントなら、毎月、数十の話の中で進行中です。悪人が善人を目指す話も、善人が悪の魅力に堕ちる話も沢山あります。


別にこれは、アメコミが正義について深く掘り下げているから、では、必ずしもありません。
日本の漫画でも同じだが、連載でマンネリが来たら、味方か敵が裏切るのは、盛り上げの定番だからです。なので、中には、ひどい話、あからさまに話題作りのために無理矢理作ったような話もたくさんあります。


ただ、そうやって読者の求めるものを積極的に提供する中から、面白い表現、深い表現も生まれてゆく、というのは日本の漫画とも同じです。
たとえば、「正義の対立」という話であれば、アメコミではスーパーマンの正義と、バットマンの正義が常に対比され、考えられてきました。
理想主義で人を信じるスーパーマンと、現実主義で悪を知るバットマンの対立は、極初期から対比、対立があります。
政府の犬となったスーパーマンに、アナーキストバットマンが立ち向かう「ダークナイトリターンズ」は、その最も有名なもので、また、この作品は、日本のファンやクリエイターにも大きく影響を与えました。

松山「…。「子供を戦争で敵を殺せるようするためにアメコミ会社が勧善懲悪コミックス・コードを導入した」ってのは陰謀論だ」


田中氏ら「仮説ってわかるかな。こう書いてあるよね。(引用する)」

さて、コミックコードについてですが、まず当時のアメリカが、マッカーシズム赤狩り旋風吹き荒れる時代だったというのがあります。国全体が、保守的な空気を目指していたわけです。そこには無論、朝鮮戦争の影響もあったでしょう。
コミックが青少年を堕落させているというのも、当然、その空気の中にありました。
ワーサムは、そうした空気に、精神科医としての立場からお墨付きを与えました。彼の果たした行為が、どこまで影響があったかは議論できるでしょうが、とまれ、時代の空気の後押しがあったことは確かです。
そういう意味では、例えばワーサムがいなくても別の形で別の誰かがコミック反対運動を行った可能性は高いでしょう。
なので、「ワーサムの責任ばかりにするのではなくて、朝鮮戦争へ向かう時代の空気も考慮すべき」ということであれば、それはその通りです。


一方、増田本に書いてあるのは、「出版社の知的エリートは朝鮮戦争で勝つために、アメリカが正義で勧善懲悪が正しいというのを一般大衆にすり込もうとした。そのため、そうした単純な正義が欺瞞と知りつつも、コミックコードを制定した」というものです。


さすがにこれは、陰謀論というか、ある種の被害妄想ではないかと思います。


もちろん、コミックに関わっている人間の中には、それは「アメリカの正義を大衆にすり込むため」に出版してた人もいるかもしれませんが、ただ、そのためにコミックコードを作った、とまで言ってしまうと、飛躍が大きすぎるでしょう。
その根拠として増田本の中であげられているのは、「コードを構成する条項の大部分が、性や暴力に関する表現より、善と悪、敵と味方を峻別することを強要する内容だからだ」という一点のみです。
1954年のコミックコードの倫理規定を抜粋します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E5%80%AB%E7%90%86%E8%A6%8F%E5%AE%9A%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A

犯罪者への共感を抱かせたり、法と正義の執行力への不信を促したり、犯罪者を模倣する願望を他人に与えるような手法で、犯罪を表現するべきではない。
犯罪が描写される場合には、汚らわしく卑劣な行為として描かれるべきである。
犯罪者を魅力的に描いたり、模倣する願望を抱かせるような地位を占めさせるような表現を行うべきではない。
いかなる場合においても、善が悪を打ち負かし、犯罪者はその罪を罰せられるべきである。
過激な暴力場面は禁止されるべきである。残忍な拷問、過激かつ不必要なナイフや銃による決闘、肉体的苦痛、残虐かつ不気味な犯罪の場面は排除しなければならない。
いかなるコミック雑誌も、そのタイトルに「horror」や「terror」といった言葉を使用してはならない。
あらゆる、恐怖、過剰な流血、残虐あるいは不気味な犯罪、堕落、肉欲、サディズムマゾヒズムの場面は許可すべきではない。
あらゆる戦慄を催させたり、不快であったり、不気味なイラストは排除されるものとする。
悪との取り引きは道徳的な問題を描写する意図でのみ使用あるいは表現されるべきであり、いかなる場合でも、悪事を魅力的に描いたり、また読者の感受性を傷つけることがあるべきではない。
歩く死者、拷問、吸血鬼および吸血行為、食屍鬼カニバリズム人狼化を扱った場面、または連想させる手法は禁止する。
冒涜的、猥褻、卑猥、下品、または望ましくない意味を帯びた言葉やシンボルは禁止する。
いかなる姿勢においても全裸は禁止とする。また猥褻であったり過剰な露出も禁止する。
劣情を催させる挑発的なイラストや、挑発的な姿勢は容認しない。
女性はいかなる肉体的特徴の誇張も無しに、写実的に描かねばならない。
不倫な性的関係はほのめかされても描写されてもならない。暴力的なラブシーンや同様に変態性欲の描写も容認してはならない。
誘惑や強姦は描写されてもほのめかされてもならない。
性的倒錯はいかなる暗示的な形であっても、厳密に禁止とする。
いかなる製品の広告においても、けばけばしい効果を狙った裸体や猥褻な姿勢は容認しないものとする。着衣の人物であっても、健全さや倫理を攻撃あるいは否定する手法で表現される物は禁止とする。

犯罪を肯定的に書いてはいけない。
エロすぎるのはダメ。
変態的なものを肯定的に書いてはいけない。
オカルト・猟奇はダメ。
という感じになるでしょうか。
私の感覚だとほとんどの項目は「日本でも普通にでてきそうだなぁ」というものです。特に戦争を前に、アメリカの正義を意図しているようには見えません。


また増田本が、この主張を、控え目な仮説として「こういう風にも考えられる」的に述べた部分はありません。強固で明白な主張として書かれています。

nk12ら「部分的に間違ったところがあるので、この本は全部間違い。それを認めない人間は反証可能を無視している」


田中氏「反証されているかどうか理論的に考えて見ましょう」

こちらのですが、私のどの発言をどう要約したのか、さすがにわかりません。

規制緩和と市場

この件については、私も書き方が悪くて誤解を招いた部分があると思います。いい機会なので、説明を。
以下、
http://itok.asablo.jp/blog/2006/06/09/398858
よりの抜粋

さて、次ですが、「競争原理は“必ずしも”文化の多様性と矛盾しない」というのは、特に誰も反対しない、当たり前のことだと思います。
(中略)
実際には、増田氏は、日本の漫画と、アメコミを対比することで、事実に基づいた検証をされようとしているわけです。
そこにおいて、「アメコミには集団ヒーローがいない」「コミックコードは朝鮮戦争厭戦ムードを抑えるため」といった事実に基づいた主張をされてる以上、その事実が正しいかどうかを確かめる必要は、充分にあると思います。
(後略)

このエントリーにも再掲載した書評は海法さんが当たり前と書かれたことに最大の評価を与えているわけです。これはまあ、市場の機能といわれるものが一見すると当たり前であっても、経済学者からみると現実には成立しがたくなおかつなかなかうまい機構に思えること、そしてそれをある特定分野に適用して史観の形にまで発展させられたらさらに魅力を増すこと、という私の評価の現われです。この史観をコミックやアニメの世界で徹底して適用したものを私はあまり知らないのです(例えば中野先生の『マンガ産業論』も経済学的な史観とはやはり違うように思えるのです、それがマイナス評価になるというわけではありません念為)。


ですので経済学の基本原理が当たり前である、ということと、それを史観にまで成長させることは別個の問題と思えます。自明なことの論証が決して陳腐ではないことと同じなのです。

ここで、田中氏は、「一見当たり前の理論」を、「特定分野にあてはめて、史観の形にまで発展させたこと」を増田本について評価しています。


自明で当たり前とされているような理論を、現実に基づいて論証するのは大切である、ということですね。
市場と規制の関係という経済の理論を理論を現実にあてはめて論証する、ということでしたら、規制によって実際の市場がどうなったかを論証するものだろう、と、私は理解しました。
コミックコードの前後で、コミックの売り上げや種類のどのような影響があったのか。
その時、他の経済条件は、どうであったか?
国民の所得は、子供の数は、紙の値段は、流通の変化は?
それらを総合してはじめて、「コミックコードは、コミック市場にこれこれの変化を生み出した」という史観を作ることができます。
逆に、そうした事実を無視した「史観」というのは、研究としては史観の名に値しないのではないか、と。

コミックコードと市場

さてアメコミ市場は、60年代に大きな盛り上がりがあり、シルバーエイジと呼ばれていました。コミックコードは段々に有名無実化してゆくが、シルバーエイジのコミックは、そうした規制はあまりありません。


コミックコードの関連で考える場合、「コミックコード後、50年代にコミックの市場は低迷したが、60年代には盛り上がった」ということになり、「一見」矛盾します。史観としてコミックコードと市場について語るのであれば、これは、きちんと調べるべきポイントでしょう。


もちろん、これ単体で、「規制が市場を縮小する」という理論の反証にはなりません。ですが、それは検証が必要ないという話ではありませんね。


どうやらそのへんで、誤解が生じた見たいで、私の視点からすると、上記のように「というわけだから事実を調べるのが大事」と書いたところ、田中さんの返答が「規制で市場が縮小するのは当然だから、調べる必要なし。必要があるというなら、市場規制で市場が広がる理屈を示せ」という話になりました。
「史観として確立するために事実を調べるべき」というつもりの発言が「調べなければ規制が働いているかどうかわからない」という意味に取られたようで、ここは私の書き方も悪かったので申し訳ないと思っているところです。

さておきまして、稲葉氏、田中氏におかれましては、史観を作る上の論証について、どのようにお考えかをあらためて教えていただければ、ありがたいです。

増田本について

先日、「なのは」の劇場版を見て来ました。
頑なで冷酷な敵対者がいる時、日本型ヒーローはどうするか?
「なのは」では、心を閉ざす相手に対しても、ひたすらその人を信じ、近づき、名前を呼ぶことで、頑なな心を溶かすヒーローが描かれていました。
もちろん、こうした話は日本だけではない。世界中にあるでしょう。


増田氏の「日本型ヒーローが世界を救う!」という本では、繰り返し、アメリカ文化の欠点が、日本文化の長所に対比されています。
増田氏の本に描かれるアメリカ文化は、頑固で一方的で冷たく理知的な存在です。


ですが、日本型ヒーローは、それを断罪してはこなかったと思うのです。
どうして相手はそう考えるのか。こちらの知らない理由があるのではないか。わかりあうにはどうすればいいか。信じる心、熱い心で相手の心を溶かすのが、いわば、王道でしょう。


もちろん「相手の立場を理解するんだ」という態度にも傲慢さは潜みます。気を付けなければ、それは単なる上から目線になりかねない。
考えて見れば、アメリカからは日本も似たように見えているかもしれません。たとえば部外者お断りの内輪の了解で閉鎖している社会、と、いったように。


いずれにせよ、そこにおいてすべきなのは、糺弾ではない。
事実を見すえながらも、相手を信じ、向かい合い、名前を呼んで手を差しのべることではないかと思うのです。
私が日本の漫画から(アメリカの、世界中のお話から)学んだのは、そういうことです。