国家という概念

※4月のmixi日記から転載。
 「国家という概念を使って思考すること」と「国家という概念によりかかって思考停止することの差」について思っていたら、ポール・グラハムハッカープログラマーの面白えらい人)のエッセイで、そのものずばりがあったので、リンクを張っておこう。
 題名は、ずばり「口に出来ないこと」だ。面白いエッセイです。
 この人のエッセイは、まとめたものが「

ハッカーと画家 コンピュータ時代の創造者たち

ハッカーと画家 コンピュータ時代の創造者たち

」という本になってます。よろしかったら、こちらもどうぞ。

http://www.shiro.dreamhost.com/scheme/trans/say-j.html

 なんか上のテキストで充分な気もしてきたが。

 さて、ある言葉が、「その場で有効な道具」に過ぎないのであるならば、捨てることも交換することも自由自在のはずだ。もちろん、その道具が役に立っているなら捨てる必要はないが、少なくとも思考実験の上では、何の問題もない。

 ついでに言うと、それを茶化したり、不謹慎なことを言ったりするのがOKかどうか、というのも重要な指標だと思う。

 逆に言うと、その言葉を茶化したり、他のものに変えたりするのがNGである場合。その言葉を単純に使うのが不適当そうな場合でも執拗に使おうとし続ける圧力がある場合。

 そこでは言葉に対する依存が起きている。
 言葉を使うのではなく、言葉に使われているのだ。

 もちろん、これは程度問題で、どんな人もそれなりのレベルでそれぞれの言葉に依存している(完全に言葉から自由な人間などいない)。

 ただ、海法の体感になるが、ここ最近、「国家」という言葉を巡る空気が、どんどん硬くなっている印象を受ける。

 この印象が当たっていれば、だが。歴史的にも個人的にもよくあることである。

 人間、自分に自信を失うと、「本当の自分にはもっと実力があるんだ!」と主張したくなりがちだ。そして、「あいつやあいつよりはマシだ」という話になりがちである。もっと被害妄想が進むと「あいつらさえいなければ、俺はもっと輝ける」ということになる。

 心に余裕がある時は、「人は人」「自分は自分」で済むわけだが、そうでない時は、つい、そういう風に考えがちになる。
 そういう経験は誰しもあると思う。

 歴史をひもとけば国家の場合も同様である。

 先行き不安になってくると、国民は、国家の威信によりどころを求めたがり、同時に、外国への排除に向かう。
 多くの戦争は、そういう風に起きてきた。
 知っての通り、世の中には、明らかに不合理な戦争(開戦自体、あるいは停戦までの過程)が何度も起きている。その理由は、関わる皆が、国家という言葉に使われてしまったからだと、私は考えている。その不合理性を主張すること自体が、自粛され、そして弾圧されたからだ。

 さて、私は日本という国が好きだし誇りも持っているつもりだ。それだからこそ「日本」という言葉を、同時に軽く扱える余裕をもっていたい。本当に大切だとわかっているからこそ、笑い飛ばせる余裕を保ちたい。

 さて、余裕余裕と書いているが、テンパってる人間は、自分がテンパってるとは、なかなかわからないものである。

 ここにこうして書くのは、海法自身が近い未来、余裕をなくした時に、「おいおい海法、自分の文章を読めよ」と誰かに言ってもらうためである。
 そんな風に皆さんも自分自身で、あるいはお互いに、チェックしてみると良いと思う。

 言葉を使うのか、言葉に使われているのか。
 そこにどこまで自覚的でいられるかが、文字通り世界を変えると思う。